深夜2時、市役所で田村は300万円の予算不足に直面する。翌朝の合併協議会まで残り6時間。地域自治区制度を守るため、彼は28枚の地図を見つめ続けた。理想と現実の闘いが、今、始まる。
※この物語は政策エンタメのメソッドによって書かれたフィクションです。
第1章・氷の街の予算表
深夜二時十五分。雪国市役所六階の会議室には、まだ蛍光灯の唸りが残っていた。
窓の外は吹雪。ガラスの向こうで、街灯が雪煙にかすむ。
田村慎一は、赤ペンを握ったまま電卓を叩く。
数字が揃った瞬間、手が止まった。
――三〇〇万円、足りない。
机の端には、山里村の協議会委員から届いた要望書がある。
「除雪車一台、修理費三〇〇万円」。
もしこの予算が通らなければ、あの村は今冬、孤立する。
蛍光灯の下、壁一面に貼られた二十八枚の地図。
町の名を囲む赤ペンの円。
それぞれの生活が、この予算の上に乗っている。
「協議会運営費、年間二八〇〇万円……」
ただの合併なら、話は早い。
中心部の論理で、すべてが決まる。
だがそれでは、
雪の深さも、
祭りの重さも、
この街の広さも、
切り捨てられてしまう。
独り言が、冷たい空気に消えた。
予算の穴を埋めるには、制度そのものを削るしかない。
だが、それをやれば、住民の声が届く仕組みが崩れる。
それだけは、絶対に譲れなかった。
――この制度を通さなければ、街は死ぬ。
壁の時計の針は、ゆっくりと進む。
翌朝八時半。
合併協議会の最終議決まで、残り六時間だった。
田村はペンを置き、窓の外に目をやった。
雪が街を覆っている。
音がすべて吸い取られたような静けさの中で、かつての光景が脳裏によみがえった。
――十五年前。
合併で消えた村の役場。
雪の中に立ち尽くす父の背中。
「誰も、俺たちの声を聞いてくれん」
あのとき、父の声は雪に呑まれて消えた。
田村は、その光景を今も忘れられない。
――二度と、あの沈黙を繰り返させない。
そのために、彼はこの制度を作った。
住民が自分の声で街を動かすために。
――ガチャ。
ドアが開いた。
背後から声。
「……まだ帰ってなかったのか、田村」
振り返る。
鬼頭誠二部長が立っていた。
ネクタイを緩め、手には缶コーヒー。
旧高田市財政課長からの叩き上げ。
合併準備室の実質的なトップだ。
「協議会予算、まだ詰めてるのか」
「はい。どうしても三〇〇万、埋まりません」
「三〇〇万か……道路の穴埋め補修を五十か所できる金額だ」
鬼頭は、机の上の書類を一枚抜き取った。
目を通す。無言。
そのまま紙を置き、低い声で言った。
「田村、理想論はやめろ。
二十八の協議会?
運営だけで二八〇〇万円。
住民は“参加”なんて求めちゃいない。
求めてるのは“除雪”と“水道”だ」
「でも、部長。
住民が自分のことを自分で決められるようにしないと――」
「変わらんよ」
短く切るような声。
鬼頭は缶を握りつぶし、ゴミ箱に放った。
「人は責任を取らない。
性善説で行政は動かん。
数字がすべてだ」
言い返そうとした田村の口が、閉じた。
正論だ。
鬼頭の言葉が、現実そのものだとわかっている。
だが――それだけでは、街が息をしない。
鬼頭が出ていった後、静寂が戻る。
時計の秒針だけが刻む。
田村は机の端のメモに目を落とした。
山里村の協議会委員からの走り書き。
「田村さん、住民の声を信じてください。
私たちは自分たちの雪を
自分たちで片づけます。」
紙の端に、雪で濡れた跡が残っている。
田村は深く息を吸った。
そして、机の上の赤ペンを握りしめた。
夜明けまで、あと四時間。
彼は地図に、新しい線を引き始めた。
雪国市の未来を賭けた闘いが、
今、静かに始まった。
