合併協議会、最終投票。鬼頭の正論「5年後の住民に借金を押し付けるのか」。田村の反論「今を乗り切らなければ未来はない」。森川議員の沈黙、そして一票。賛成8、反対7。理想は通ったが、代償も残った。
※この物語は政策エンタメのメソッドによって書かれたフィクションです。
第3章・崩れる理想
午前九時三〇分。
雪国市役所、六階大会議室。
外は鉛色の空。窓の外を、湿った雪がゆっくりと落ちていた。
長机がコの字に並べられ、中央に田村慎一が立っている。
手元の資料には、赤字で「地域自治区制度 最終案」と記されていた。
鬼頭誠二部長が、静かに口を開いた。
「返済猶予分を転用する? 田村、それは五年後の住民に借金を押し付けるだけだ。今を救うために、未来を犠牲にする気か?」
会議室に冷たい空気が走った。
数人の議員が小さく頷く。
田村は、一歩前に出た。
「部長、確かにその通りです。五年後に負担は集中します。
でも――五年後を迎える前に、この街が消えてしまったら、誰が返済するんですか?」
鬼頭の眉がわずかに動いた。
田村は資料を掲げた。
「地域自治区制度は、未来のための“仕組み”です。住民が自分の課題を自分で解決する力を持てば、行政の負担は確実に減ります。
五年後、その力が街を支えます。私は、そう信じています」
田村が着席する。
会議室が静まり返った。
誰も口を開かない。
鬼頭は、机の上の資料をゆっくりと閉じた。
その動作は、まるで何かを諦めるようにも見えた。
――そして、何かを認めるようにも見えた。
鬼頭は誰にも聞こえない声で呟いた。
「……お前の勝ちだ、田村」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
議長が口を開く。
「それでは、各議員の意見を伺います」
最初に発言したのは、若手の市議だった。
「私も賛成します。田村主任の言う通り、今を乗り切らなければ未来はない。借金の問題は、五年後に我々が責任を持って解決すればいい」
続いて、年配の議員が反対を表明する。
「私は反対だ。この制度は理想論に過ぎない。二十八もの協議会を運営する人材も予算もない。結局、机上の空論で終わる」
発言が交互に続く。
賛成、反対、賛成、反対。
どちらの声にも正しさがあった。
田村は静かに聞いていた。
議員たちの発言が、遠くから聞こえるようだった。
拳を握る。手のひらが汗で濡れている。
資料の文字が滲んで見える。
――今、すべてが決まる。
議長が告げる。
「森川議員、どうぞ」
会議室の空気が変わった。
森川義昭議員は、ゆっくりと煙草を灰皿に押しつけた。
その音だけが、部屋に響く。
しばらくの沈黙。
森川が立ち上がった。
「……私は、賛成する」
それだけ言って、着席した。
投票が始まる。
議長がひとりずつ名前を読み上げ、賛否を記録していく。
「賛成……反対……賛成……反対……」
声が交互に響くたび、空気が重くなる。
最後の一人が答えた瞬間、時計の針が十一時を指した。
議長が結果を読み上げる。
「賛成八、反対七。――可決です」
短い沈黙。
誰も拍手をしなかった。
勝者も敗者もいない。ただ、重い決断だけが残った。
田村は、深く息を吐いた。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
勝ったはずなのに、心は晴れない。
鬼頭が立ち上がり、資料を抱えて会議室を出ていく。
その背中を、田村は黙って見送った。
廊下に出た鬼頭は、窓の外を見上げた。
灰色の空から、雪が静かに降っている。
「……あいつ、本気で住民を信じてる。俺には、もうできん芸当だ」
鬼頭は小さく笑い、去っていった。
会議室には、田村ひとりが残った。
机の上には、二十八の地図が並んでいる。
どの地図にも、赤ペンの線が走っていた。
田村はそのひとつを手に取り、呟いた。
「……通った、のか」
窓の外。
雪国市の空に、静かに雪が舞う。
白い粒が窓を叩き、溶けて消えた。
――理想は、通った。
だが、代償も残った。
