※この物語はフィクションです。
第一章 声なき声を聴く女
桜賀市役所の廊下に、井戸恵子の足音が響いた。午前九時。今日もまた、市民の「困った」を解決するための一日が始まる。
「井戸議員、お疲れさまです」
受付の職員が頭を下げる。井戸は軽く会釈を返すと、予算決算常任委員長室へ向かった。机の上には、すでに山積みの資料が待っている。
その時、携帯電話が鳴った。
「はい、井戸です」

「あの、井戸さんでしょうか。田中と申します。実は息子のことで…」
電話の向こうで、女性の声が震えていた。
「落ち着いて、ゆっくりお話しください」
井戸は椅子に座り直し、受話器を握りしめた。
「息子が発達障害で、普通学級についていけないんです。でも支援学級もいっぱいで…どうしたらいいのか分からなくて」
井戸の頭に、8年前の記憶が蘇った。あの時も同じような相談だった。そして今、桜賀市の全ての小学校に支援教室が設置されている。しかし、それでもまだ足りないのか。
「分かりました。詳しくお聞きしたいので、今日の午後、お時間はありますか?」
「はい、ありがとうございます」
電話を切ると、井戸は深く息を吸った。59歳。議員になって8年。まだまだやることがある。
第二章 甲洋電機時代の教訓
午後三時、井戸は田中さん親子と市内のカフェで向かい合っていた。
「息子の太郎は、みんなとちょっと違うんです。でも、悪い子じゃないんです」
田中さんの目に涙が浮かんでいる。横に座る小学三年生の太郎は、じっとテーブルの木目を見つめていた。
「お母さん、太郎くんは何も悪くありません」
井戸の声に、田中さんがハッと顔を上げた。

「私も昔、甲洋電機で働いていた時に学んだんです。一人ひとりが違うからこそ、チームは強くなるんだって」
井戸は太郎に向き直った。
「太郎くん、好きなことはある?」
「電車…」
小さな声だった。
「そう!電車のことなら何でも知ってるの?」
太郎の目が初めて輝いた。
「うん!新幹線は時速320キロで走るんだ。でも、リニアモーターカーは500キロ以上出るよ」
「すごいね!私なんて全然知らない」
井戸は田中さんを見た。母親の表情が和らいでいる。
「太郎くんみたいに、みんなが気づかないことに気づける子は、とても大切な存在なんです。支援教室も大事だけど、太郎くんが太郎くんらしくいられる場所を、一緒に作りましょう」
第三章 予算委員会の攻防
翌週の予算決算常任委員会。会議室には緊張感が漂っていた。
「委員長、発達支援教室の増設について、予算が不足しているという報告がありましたが」
対立する会派の議員が鋭い視線を向けてくる。
井戸は資料に目を落とした。確かに予算は厳しい。しかし、諦めるわけにはいかない。
「確かに予算は厳しい状況です。しかし、私たちが見落としていることがあります」
井戸は立ち上がった。
「支援が必要な子どもたちを早期に支援することで、将来的にかかる社会保障費を大幅に削減できます。これは投資なんです」
「投資と言われても、現実問題として予算が…」
「では、具体的な数字をお示しします」
井戸は用意していた資料を配り始めた。
「早期支援により、一人当たりの生涯医療費は平均300万円削減されます。現在支援を必要とする子どもが200人いるとすると…」
「6億円…」
財政課長が驚きの声を上げた。
「そうです。支援教室の増設費用は1億円。差し引き5億円の節約になります」
会議室が静まり返った。
「さらに」
井戸は続けた。

「支援を受けた子どもたちが将来納める税金を考えれば、この投資効果は計り知れません」
第四章 夜中の緊急事態
深夜11時。井戸の携帯電話が鳴り響いた。
「井戸議員でしょうか。消防署です。市内の高齢者宅で緊急事態が発生しています」
「どのような?」
「独居の山田さん(82歳)が体調を崩されて救急搬送されましたが、ゴミが家に溜まっていて、今後の生活が心配な状況です」
井戸は即座に身支度を整えた。現場主義。それが彼女のモットーだった。
現場に到着すると、想像以上に深刻な状況だった。ゴミが天井近くまで積み上げられ、足の踏み場もない。
「山田さんは、最近足腰が弱くなって、ゴミ出しができなくなっていたようです」
消防隊員が説明する。
「分かりました。明日の朝一番で、福祉課と相談します」
井戸は家の中を見回した。こんな状況で暮らしていた山田さんの心境を思うと、胸が痛んだ。
「でも今夜は、どうしましょう。山田さんが退院されても、この状況では…」
「私が泊まり込みます」
井戸の言葉に、消防隊員が驚いた。
「議員がそんなことを…」
「議員だからこそです。市民の生活を守るのが私の仕事ですから」
第五章 ゴミ出し支援制度の誕生
翌朝、井戸は福祉課に直行した。
「課長、昨夜の件ですが、山田さんのようなケースは他にもあるはずです」
福祉課長は困った顔をした。
「実は、同様の相談が月に10件以上来ています。でも、制度がないので個別対応で…」
「では、制度を作りましょう」
井戸の即断に、課長が目を見開いた。
「制度と言っても、予算が…」
「シルバー人材センターと連携すればどうでしょう。高齢者の仕事も創出できて、一石二鳥です」
その日の午後、井戸はシルバー人材センターの理事長と面談していた。
「ゴミ出し支援ですか。面白いアイデアですね」
「高齢者が高齢者を支える。互助の精神です」
「しかし、責任問題が…」
「市が保険に加入します。それと、簡単な研修制度も設けましょう」
理事長の表情が変わった。
「なるほど、それなら検討できます」
第六章 中学校の革命
三か月後、井戸は市内の中学校を視察していた。今日は特別な日だ。ついに全ての中学校体育館にエアコンが設置されたのだ。

「井戸議員、ありがとうございました」
体育教師の先生が頭を下げる。
「いえいえ、これは当然のことです。40度を超える猛暑の中で体育をするなんて、危険すぎます」
井戸は体育館を見上げた。天井に設置された大型エアコンが静かに作動している。
「でも、予算委員会では大変でしたね。『昔は扇風機だけで十分だった』なんて言われて」
井戸は苦笑いした。確かに激しい議論があった。
「時代が変わったんです。昔と今では気温も湿度も違う。子どもたちの命を守ることに、昔も今もありません」
その時、体育の授業が始まった。生徒たちが元気よく駆け込んでくる。
「先生、今日は涼しいね!」
「エアコン最高!」
生徒たちの笑顔を見て、井戸は心から良かったと思った。
第七章 深夜の政策立案
夜中の1時。井戸は自宅の書斎で資料と向き合っていた。机の上には、若者定住促進に関する調査データが散らばっている。
桜賀市の人口減少は深刻だった。特に20代、30代の若者が県外に流出している。
「コワーキングスペース…ワーケーション…」
井戸はペンを走らせた。時代は変わった。働き方も変わった。それなら、桜賀市も変わらなければならない。
携帯電話が鳴った。夫からだった。
「恵子、まだ起きてるのか?」
「ごめん、もう少しで終わるから」
「体だけは気をつけろよ。市民のために倒れたら元も子もない」
夫の優しい声に、井戸は微笑んだ。支えてくれる家族がいるからこそ、頑張れる。
「分かってる。あと30分で寝るから」
電話を切ると、井戸は再び資料に向かった。若者に選ばれるまち。それは単なる理想ではない。桜賀市の未来がかかった戦略だった。
第八章 マッチング支援制度への挑戦
市役所の会議室で、婚活事業の企画会議が開かれていた。
「結婚応援マッチング支援制度の件ですが、正直、行政がそこまでやる必要があるのでしょうか」
企画課長が疑問を呈した。
井戸は用意した資料を開いた。
「課長、桜賀市の婚姻率の推移を見てください。この10年で20%減少しています」
「それは全国的な傾向で…」
「その通りです。だからこそ、行政が動かなければならないんです」
井戸は立ち上がった。
「結婚は個人の自由です。でも、『したいけどできない』人たちを支援するのは、行政の責務だと思います」
「しかし、プライバシーの問題もありますし…」
「今の時代、マッチングアプリは普通です。それを行政が信頼できる形で提供する。何か問題がありますか?」
会議室が静まり返った。
「具体的には、どのような制度を?」
「まず、信頼できる結婚相談所と提携します。そして市民には、相談料の一部を補助する。さらに、婚活イベントも定期開催します」
第九章 75歳の壁を越えて
ある日の午後、井戸は市内のバス停で一人の高齢者と出会った。
「おばあちゃん、どちらまで?」
「病院なんですが、バス代が…」
おばあちゃんは申し訳なさそうに小さな財布を見つめていた。
「75歳以上は無料じゃありませんでしたっけ?」
「ええ、でも病院までは市外なので…」
井戸は膝を打った。そうだった。75歳以上の公共交通無料化は市内限定だったのだ。
「分かりました。来月の議会で提案します」
「え?」
「市外の病院まで無料にします。病気に市境は関係ありませんから」
おばあちゃんの目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます…」
その夜、井戸は制度設計を始めた。近隣市との相互協定、予算確保、バス会社との交渉…課題は山積みだった。
しかし、諦めるという選択肢は彼女の辞書にはなかった。
第十章 議会での最終決戦
ついに来た。桜賀市議会12月定例会。井戸が提案する75歳以上公共交通無料化拡充案の採決の日だった。
「この制度により、年間約2000万円の予算が必要となります」
財政課長の説明に、議場がざわめいた。
「井戸委員長、財源はどのように確保されるのですか」
野党議員からの鋭い質問が飛んだ。
井戸は壇上に立った。
「議員各位、私たちは何のために政治をしているのでしょうか」
議場が静まり返った。
「数字の上では2000万円です。しかし、この制度により救われる命がある。尊厳ある生活を送れる高齢者がいる。それに価格はつけられますか?」
井戸の声に熱がこもった。
「さらに、高齢者の外出機会が増えることで、医療費は確実に削減されます。フレイル予防の効果は、年間5000万円に相当するという研究データもあります」
「つまり、差し引き3000万円の節約になると?」
「その通りです。これは投資なんです」
議場が沸いた。
「採決に入ります」
議長の声が響く。
「賛成の方は挙手をお願いします」
井戸は目を閉じた。8年間の集大成。全てがこの瞬間にかかっていた。
「賛成多数により、可決!」
議場に拍手が響いた。井戸の目に涙があふれた。
エピローグ 誠実に懸命に
それから1年後。
桜賀市は「住みたい街ランキング」で関西10位にランクインした。若者の転入も前年比30%増加した。
井戸は今日も、市民の声に耳を傾けている。
「議員さん、娘の保育園のお迎えが間に合わなくて…」
「分かりました。延長保育の時間についてですね。すぐに調べます」
井戸の携帯電話が鳴る。新しい「困った」の声だった。
「はい、井戸です。誠実に懸命に対応させていただきます」
井戸恵子の戦いは続く。誰一人取り残されない、温かいまちを作るために。
(了)
著者より この物語は、実在の政治家の実績と政策提案を基に構成したフィクションです。「現場主義」「データに基づいた論理的思考」「諦めない精神」「市民との対話」というエッセンスを込めて執筆いたしました。